魂の感性を高める太礼神楽

古来より日本には<神楽>という舞踊がありました。
これは神に感応するために行われるものでした。
この「神に感応する舞踊」、「魂の舞」、
それが本来の<神巫舞>としての「神楽」でした。
現在、神社で舞われる「巫女舞」は美しい所作であり、
それは舞踊の一つとして大変価値があるものですが、
感応舞踊としての一面は室町期にはすでに失われています。

また、神宮や大社には厳かで格式と伝統美に満ち溢れた
素晴しい「宮廷神楽」や「舞楽」などの舞踊がありますし、
一方、全国の神社などでは、祭礼で披露されるものに、
「里神楽」という舞劇があります。
これはこれでなかなか味わい深いものがあります。
ところが、舞踊に<魂の感応性>を求めるとき、
それらの舞踊のいずれにもそのことが指導されていません。
古代のその「魂の感性を高める舞踊」を伝承するものが、
稲荷山で出会った白翁老師の伝える<太礼神楽>です。

<太礼神楽>は別名<愛気神楽>ともいい、
<太礼範神楽伎流愛気和道(略称、太礼道)>の一分野です。
太礼神楽は聖地や霊地で舞うものであり、舞台で披露したり、
神社で舞う「神楽舞」ではありません。
本来は「心身の修養」を行う目的で開いた修練道であって、
「太礼を修め、愛気を養い、霊性の向上を目指す和道」と、
「丹田を練り、愛気を放ち、天地和合を図る神楽伎道」があり、
二つを合わせて<太礼範神楽伎流愛気和道>としているのです。
<太礼神楽>といった場合、主に後者を指しています。

太礼神楽の舞伎の基となったのが次の三つの心体技法です。
(1)生命力を活性するための<たまふり(振魂)>を行い、
(2)意識を拡大するための<たましずめ(鎮魂)>に続いて、
(3)霊魂が遊離する経過で<たまゆら(揺魂)>が起こる。
たまふりは、<ふるえ(振動)>という身体の動作、
たましずめは、<すめる(統一)>という意識の操作、
たまゆらは、<ゆらぎ(緩動)>という身体と魂の所動です。
その心体動作には、<ふる(振動)>、<ゆら(波形)>、
<くる(円・回転)>、<ひら(螺旋)>があります。
たましずめは、<息気(いぶき)>という呼吸法と、
<夢見(ゆめみ)>という瞑観法を用いて行います。
たまふりの運動原理は生命の躍動である<舞>と<武>に、
たましずめの運動原理は生命の沈静である<舞>と<武>に
それぞれ分かれます。

<舞>は舞踊の祖神・天宇受売命(あめのうずめ)が、
岩戸の前で舞い踊った<伎招(わざおぎ)>の道であり、
これがあとの<神楽(かぐら)>となりました。
<武>は道開きの祖の男神・猿田彦命(さるたひこ)が、
諸族を誘い和合へ導いた<和魂(やわらぎ)>の道であり、
これがあとの<武祓(さむはら)>となりました。
これは後世において合気(あいき)の体術となります。
太礼神楽はこの武祓(さむはら)の伎の流れを合わせた、
合気神楽=愛気神楽でもあるのです。

太礼道の第一の目的は「練気と体幹の感得」にあります。
宇宙大自然に充満している気のエネルギーを体内に流入し、
身体の奥に秘められたエネルギーコア(丹田)を強化し、
心身の中心を定め、心に一本の筋を立てる修法をいいます。
それの効能として、生命エネルギーの活性、心身の強化、
ストレスの解消、ネガティブな思考・言動からの解放、
ボディのシェイプアップ、未病・生活習慣病などの予防、
さらに信念・忍耐・寛容の精神の養成などがあります。

太礼道の第二の目的は「天然楽と宇宙への融合」です。
天然楽はてんねんらくと読み、大自然体のことを指します。
「自然体にあることを心から楽しむ」ことをいいます。
古より続く神道の教えではこれを「神ながら」といい、
神ながらとは「生命のあるがままに」という意味です。
これを猿田彦命は「アマナリ(天成)の道」としました。
これは仙人の説く世界観でもあります。
これを修める鍵は「元糾す即ち天なり」の言葉にあります。
元糾す(もとただす)は「生命を本来あるべき位置に戻す」、
即ち天(ちはやあま)は「瞬時に宇宙となる」ことです。
「生命を本来あるべき状態に戻す、即ち自然体で生きれば、
自らの生命が宇宙大自然と一体にあることと同じなので、
自らの生命は瞬間に宇宙と一つになる」という意味です。
即ち「生命の中心へ帰一する、生命の全容性への到達」。
これが本来の<太礼>という言葉と修法の意味であり、
生き方がこの法に則ることを<太礼範>と呼んでいます。
これを言い換えますと、
「自らの中心を定め、愛気を修め、身心の柔和を得る道」、
また「日本の美しき流れであるヤワラギ(和らぎ)の道を、
神楽の身体技法を用いて伝えること」にあります。
それにより天地和合・陰陽中空・心身統合の境地に至る。
これらを修める和らぎの道を<和道>と呼んでいます。

太礼道の第三の目的は「神巫(かんなぎ)の養成」です。
神巫とは霊界と現界を行き来するシャーマンのことです。
その養成とは「眠れるシャーマン(神巫)性への目覚め」、
「現代におけるシャーマニズムの復活」を促すことです。
その復活をもって新たな時代に向けての準備を整えます。
それは古神道による神聖純化法<スガ(素我)>のもと、
日本古来の神楽(かぐら)と武祓(さむはら)を用いて、
生命本来の<ミスマル(澄円身)>の状態に戻します。
それをもって「人類の眠れるDNAの目覚め」を促し、
あるいは「原始意識=シャーマンの復活」へと誘います。
これを太礼道では<神楽伎(かぐらぎ)>と呼んでいます。

ところで、<太礼範神楽伎流和道>を要約しますと、
「太礼の玄理に基いて神楽の伎と舞いを修め、
それによって心身に柔和を得て、天地和合に至る道」
というような意味になります。
それは「神楽伎の練気操舞を用いた心身健康法」であり、
そして「天地への感応と相対するものの和合の道」であり、
また「日本の美しき流れである和道を継承する道」であり、
「愛気神楽(感応操舞)を用いた心身の変容芸術」なのです。
さらには「本当の自分を見つける内的な探索の道」であり、
その究極は「大いなる宇宙に出会う道」でもあるのです。

太礼範神楽伎流愛気和道 宗匠

[追申特記]
確かに<太礼範神楽伎流愛気和道>の講習では、日本の神道・仏教・タオ・キリスト神秘霊学の用語を用い、神道・神仙道・禅などを取り入れた修法を行なっていますが、といって、宗教としての道を伝える宗教新派などではなく、武術・武道の技や教義などを伝えるものでもありません。
また、神楽の舞伎のみを伝えるものでもないのです。
それらの精髄を吸収し活用しながらも、ひたすら純粋に、「霊性の向上を目指す道場」でありたいと思っています。
「ただひたすら愛気を放ち、かつひたむきに太礼を修める」
この一行に<太礼範神楽伎流愛気和道>の真髄があるのです。